少年としての戦争というもの

戦争と言うもの

  (1)被害者としての戦争
  
  
(1)
 
 東京の下町、毎日が楽しい生活だった。メンコ、ベーゴマ、探偵ゴッコ、トンボとり。日々

充実していて、その生活が活力にみなぎっていたように思える毎日だった。
 
 昭和16年12月8日、寒い日だった。朝起きていつものように外へ飛び出した.大人たちが焚

火をかこみながら感情を高ぶらせながら大声ではなしていた。
 
 戦争が始まった。日本が正義の戦争を始めた。神国日本が鬼畜米英を相手に聖戦を始めた。
 
子ども心になにかわくわくした躍動感が感じられ大人達の話しに耳を傾けた。

 今になって、私は「戦争に反対だった」という知識人もいるがさて、実際はどうだったか。

 それ以後、新聞やラジオに耳を傾ける習慣が身に着いた。日本軍は連戦、連勝。子ども達の興

奮は極度にたかまった。学校でも日本軍の勇敢さと、その強さが話題にならない日はなかった。
 
 先生に引率され「ハワイ・マレー沖海戦」などをみせられた。いやが上にも好戦的気分にさせ

られていく過程、プロパガンダの恐ろしさ今にして思えば慄然とせざるを得ない。

 4年生になると学校が変わることになった。今までの学校が遠すぎると言うことが理由だ。近

くにあった女学校が閉鎖されそこが新しく私達が通う学校になった。
 
 理由は敵機の来襲に備えるということだった。戦況はそれほど悪くなっていたに違いないが、

大本営発表は景気のいいものばかりであった。
 
 その学校には隣の学校からも新しい生徒がきていた。

男たちの通例として勢力争そいが毎日のように続き、殴り合いの喧嘩の毎日だった。
  
 安定するまで1ヶ月間、戦争のことなどすっかり忘れさっていた。
 
その間、私達にはわからなかったが戦況は日増しに悪くなっていたようだ。

 友達の家が壊されていく、家が込入っているため火災予防のため間引き疎開を強制させられて

いるのだ。
 
 政府はもう、空襲を予期していたに違いない。

 「教室の空席目立ち友は去り

       間引き疎開の冬は寂しき」

何年か後に当時の状況を思い出して作った歌である。

                   

5年生になると集団登校が始まった。毎朝、点呼、軍人勅諭の斉唱などが登校前に行われた。

「我国の軍隊は世世天皇の統率したまうところにあり

昔、神武天皇自ら大友、物部のつわものどもを率いまつろわぬものどもを打ち平らげ「おおみく

ら」につかせられたがおよそ兵権を臣下にゆだねたまうことなかりし……

当時としてわけの判らぬ言葉を暗唱させられた。


 サイパン島が陥落した。B17(そのあとB29になる)の空襲が連夜の如く繰り替えされる。遠く

の方で焼夷弾が落ちる。2,3分後に真っ赤な火の手があがる。いつ、自分のところに落ちてく

るか判らない。毎日、毎日が恐怖の連続だった。

硫黄島が陥落すると、その頻度はますます激しくなった。朝、学校に行く、教材を机の中に入れ

るか、入れないうちに警戒警報、鳴り終わらないうちに、空襲警報のサイレン。すぐ、下校。

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の戦闘機が液冷の金属音が響く。操縦手の顔が見えるくらい低空で機銃掃射する。機関砲が

アスファルトに

連続して穴をあけていく。すくみかえって電柱にしがみ

つく。

 午後、B29の爆弾攻撃。防空壕に避難する。遠くに落ちても、その震動はすざましい。爆風が

窓ガラスを割る。

それが連日である。

ついに学校が廃校になった。縁故のある生徒は親類を頼って田舎へ、縁故のない生徒は教師と一

緒に集団疎開へ。私は一時、集団疎開の道を選んだ。そこは、現在の京葉コンビナートの中心地、
西千葉の臨海学園だった。

そのころは全くの田舎で人家などまばらで敵機の攻撃目標などなにもなく全くウソのような静け

さであった。

 1ヶ月後、私は母の実家の茅ケ崎に縁故疎開できるようになったので、そこを離れた。

(あとの話しであるがここにいた教師、生徒の全員はB29が帰りがけに落とした爆弾の直撃を受

け、全員、死亡したそうである。        

 疎開したのは母と私、そして弟3人である。兄は大学生であったが徴兵年齢の繰り下げで入

営、家は父一人が残った。

 田舎での生活は空襲はなかったが疎開いじめが激しく、決して快いものではなかった。現今の

子ども達だったらどうであろう、登校拒否さえ起こしかねない連日の暴力行為があったことは記

憶の断片として残っている。

6年生の3月、都立三中(現在の両国高校)受験のため私、一人だけ東京に戻ることになった。

3月9日の深夜、いつものように空襲警報のサイレンが鳴る。恒例のご訪問かと思っていたが、

バシッ、バシッと屋根を貫いて焼夷弾が発火しながら落ちて来た。外はもう真っ赤である。怪鳥

のようにB29が低空にみえる。

それだけ炎の明るさがすざましかった。

消防団長をやっていた父が外で大声で「早く、早く、」と叫んでいる。そして、「初期防火、初

期防火」と言い続けていた。

その言葉が父の最後の言葉になるとは、そのとき、思いもしなかった。

密集した家々、どの家からも真っ赤な炎が出ている。

焼夷弾は相変わらず降り注ぐ。ところ構わずに……

 

           (2)
            

すべてのものが燃えている。火の粉が飛び散り体に付着する。アスファルト道

路が熱で溶けはじ

める。運動靴の底が熱で溶ける。

 
 学校の防空壕はすでに満員、壕の入り口から憲兵隊の隊員がホースで水をか

けている。周囲の熱をさますためだ。プールの中に飛び込む人もいた。大人達

に突き飛ばされながら校門から外に出る。

 地獄図、まさに地獄であった。火を避けながらどこへともなく逃げて行く。

息が苦しい。もう

駄目だ。何度もそうおもった。
 
 10日未明になった。激し買った空襲も終わりかけていた。
 
 木と紙で作られた家々、油脂焼夷弾の高熱ではたまらない。「アッ」とまに街は廃墟、そこか

しこに焼死体がごろごろしていた。

 みんな死んでしまったのか、レンガ作りの建物によりかかっている人がいる。鉄カブトをかぶ

り真っ黒に焼けている。風が吹くと黒い頬が白くなる。
 
 肉が焼け灰となり風に飛ばされ骨が表れたのだ。                      
戦争、そしてこの苦しみ。僕達は一体どんな悪いことをしたんだろう。なぜ、こんな地獄に落ち

なければならないのだろうか。

 密集した人家が並ぶ、そこには戦争責任すらない一般市民がささやなな生活を送っている。そ

こへ、この過酷な洗礼。人間が人間を多量に殺戮いく。
 
 一体、人間とはなんだろう。国家とはなんだろう。

政治とは、人間の権力志向性とは……
 
そんな想いが幼い脳裏を横切った。

 自分の家(あったところ)へ戻った。焼け跡にはなにもない。くすぶっているものがかすかな

煙をあげている。
 
 父を待ったいつまでも待った。人気はない、急がしそうに兵隊サンたちが動きまわっている。

近所の人たちも

いない。みんな、みんな、死んでしまったのか……。兵隊さんがおにぎりを持ってきてくれた。
 
 父はいつまで待っても帰って来なかった。死んだとは思いたくはなかったが。

 辛酸に辛酸を重ね、やっとの思いで疎開先に辿り付いた。その間、弁当を分けてくれたり。電

車賃をたてかえてくれたり、人の情けをしみじみと感じた。

 人間とは本来、善意の存在ではなかろうか。それが、国家という組織になると戦争をおこす。
 
 人間の歴史も戦争の歴史が大分をしめている。
 
 ああ、戦争、なんとかなしいものだろうか。
 
 やっと疎開先の学校に戻ることができた。先生が(家が焼かれ、父親が行くえ不明、みんな親

切に接して欲しい。)だが、そんな言葉はなんの効果もなかった。疎開いじめはますますエスカ

レートしていくばはりであった。「家なし野郎」「親父なし」侮辱的なことばが飛び交う。(現

在、彼等とは非常に親しくつきあっている。)

 子どもは純真である。という言葉は当てはまらない。こどもは、まだ未分化の有機体だと思う

。そこには自己を中心として生存競争を勝ち抜いていこうとするDNA

が未分化のままに存在している。
 
 弱者に対するむごい仕打ち、それが露骨にでる場合が多くある。
 
それを教育(歴史が培った、家庭教育、社会教育、学校教育)の場において社会的人間に成長し

ていくものである。子ども時代はその過程だったのだと思う。
 
だからこそ疎開苛めということばが出現したのではなかろうか……

 そうこうする間に4月、受験できなかったため中学には入れない。そのまま高等小学校に進む

(修業年限2年、これが新制中学校にかわる)
 
こんなところにも戦争とは人の運命を変容すろものである。

 いま、戦争の被害者としての立場(それも、子ども時代に受けた精神的、経済的、肉体的苦痛

)で書いてきた。勿論、戦争とは相対的なものであって、一方が善で、もう一方が悪であると極

めつけることは不可能であるし、そんなことはありえない。

 双方、それぞれの言い分があり絶対的正義などあろう筈がない。なんとなれば「人を多く殺す

」ことが勝利に結びつくからである。
 
 我々が学んできた歴史は「戦い」の歴史が多い。どのくらいの人類が同種である人類によって

殺戮されたであろうか。


「歴史は繰り返す」確かに戦争の歴史は繰返されている。こんど、世界的規模の戦争が起こった

ら地球は破滅することは確実だと思う。

 その意味において戦争とはいかに悲惨なものであるか、その体験者に未来に向かって語りつい

ていかなければならないと思う。そして、それはこの時代に生をうけたものの責務であろう。あ

とは、人類の叡智に期待する。
 
 子、孫、未来に生きるもののためにも。

  特攻の若者達が母恋いて
         飛び立ちし基地知覧の街よ

  語り部の指さす彼方蛍飛ぶ
         若者達の御魂帰りぬ

  八月の熱き砂丘の壕ほりを
         途中で止めし敗戦の日よ

                 
おわり